ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓「筒井順慶・本能寺の変の苦悩と日和見イメージ定着の真相」

本能寺の変の後、明智光秀と羽柴秀吉のどちらに与するか決めかねていたとされる大和の大名・筒井順慶の敗北を紐解く!後世、日和見のイメージが定着してしまった理由とは?

10月26日 月曜 20:00 -20:58 BS11イレブン

「洞ヶ峠を決め込む」という言葉の由来となった大和の戦国大名・筒井順慶の敗北から現代に通じる教訓を探る! 1549年、筒井順昭の長男として生まれた順慶はわずか2歳で家督を継ぐが、11歳の時に松永久秀に筒井城を奪われ、その後、何度も久秀と激闘を展開。1568年に織田信長が上洛すると、順慶は信長に臣従、28歳にして大和の統治を任される。そして翌1577年、信貴山城の戦いに従軍し、宿敵・久秀を滅ぼした。
その後、順慶は信長の重臣・明智光秀の与力として数々の合戦に参加していたが、1582年、光秀が本能寺の変を起こすと、頭を抱える。与力として支えた光秀に与するか、打倒光秀を目指す羽柴秀吉に味方するか。順慶は悩み抜いた末に秀吉への加担を決断するが、順慶が参陣する前に山崎の戦いが起き、光秀が討伐されたため、遅れて参陣した順慶は秀吉から厳しい叱責を受けてしまった。 順慶はなぜ、合戦に間に合わなかったのか?
その後、秀吉の家臣となった順慶は大和の支配権を認められ、秀吉への忠誠を誓う。そして、数々の合戦に参加するが、1584年、小牧・長久手の戦いの最中に病状が悪化し、36歳で波瀾の生涯を閉じた。家督を継いだ筒井定次は四国攻めの後、伊賀に移封され、伊賀上野藩主となるが、1608年、改易に処され、1615年、嫡男と共に切腹を余儀なくされてしまった。 順慶の敗北から学ぶ教訓は…「腹を決めたら素早く動け」!
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。