ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓「織田有楽斎・和平交渉に長けた大名茶人の苦渋の決断」

織田信長の弟で「利休十哲」の一人に数えられる大名茶人・織田有楽斎の敗北を紐解く!数々の和睦交渉を担いながら、大坂の陣で姪・淀殿の命を守り切れなかった理由とは?

10月5日 月曜 20:00 -20:53 BS11イレブン

信長の13歳下の弟で大名茶人としても知られる織田有楽斎の敗北から明日を生きるための教訓を探る! 1547年、織田信秀の十一男として尾張に生まれたと伝えられる有楽斎は1582年、信長の嫡男・信忠を支え、甲州攻めに従軍するが、その直後に本能寺の変が勃発。信長と信忠の死後、京都を脱出した有楽斎は信長の次男・信雄を支え、信雄と羽柴秀吉、秀吉と徳川家康の和睦交渉を担い、調停人としての力を発揮した。
千利休に師事し、茶の湯にのめり込んだ有楽斎は姪の淀殿を後見し、豊臣政権下で独自の立場を得る。関ヶ原の戦いでは東軍に加担するが、戦後、豊臣家と徳川家の架け橋となるべく奔走した。1614年、大坂冬の陣が勃発すると、有楽斎は両家を停戦に持ち込むが、最後は淀殿を説得しきれず、大坂城を後にした。そして、その後の夏の陣で豊臣家は滅亡してしまう。 戦を嫌った和平交渉の達人はなぜ、淀殿を守り切れなかったのか?
大坂夏の陣の後、政治の表舞台から姿を消した有楽斎は京都・建仁寺の塔頭である正伝永源院に隠遁、明るい光が差し込む開放的な茶室を造り、一茶人として晩年を過ごす。そして1621年、75歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。「逃げの有楽」との汚名を着せられながら、自己を貫いた有楽斎の生き方は命を投げ打つ戦国の世に一石を投じたのかもしれない。 有楽斎の敗北から学ぶ教訓は…「過去は変えられないので未来を考えよ」!
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。