偉人・敗北からの教訓

ドキュメンタリー/教養

偉人・敗北からの教訓 第75回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原②島津義弘」

関ヶ原の戦いで敵中突破を敢行した西軍・島津義弘の敗北を紐解く。薩摩の猛将はなぜ、天下分け目の合戦をわずか1500の兵で戦わなければならなかったのか?

1月11日 土曜 21:00 -21:55 BS11イレブン

偉人・敗北からの教訓 第75回「シリーズ東軍・西軍それぞれの関ヶ原②島津義弘」

兄・島津義久と共に島津家の発展に尽くした島津義弘の敗北から現代に通じる教訓を探る。1535年、島津貴久の次男として薩摩国に生まれた義弘は20歳で初陣を飾り、兄・義久が領国経営に専念する中、合戦の大将として勢力拡大を目指す。日向の伊東氏や豊後の大友氏を駆逐し、九州の大半を制圧するが、豊臣秀吉の大軍に屈する。この頃から、兄弟の間に溝が生じる。豊臣政権が義弘を島津家の当主として扱ったからだ。
義弘は文禄の役では出陣が遅れ、屈辱を味わうが、慶長の役では獅子奮迅の活躍を見せる。秀吉没後、豊臣大名が二分して覇権を争うと、義弘は当初、東軍に加わる予定だったが、急遽、西軍として参加。しかし、義弘が率いた兵はわずか1500で、思い描いたような活躍ができない。やがて、西軍の敗色が濃厚となると、諸将が散り散りとなり、義弘も撤退せざるを得なかった。義弘はなぜ、わずかな兵で戦わざるを得なかったのか?
関ヶ原に孤立した義弘は命がけの敵中突破を敢行する。東軍・井伊直政の追撃を受けるが、島津隊が命を顧みず、応戦、直政に銃弾を放ち、重傷を負わせた。危機を脱した義弘は大坂城で人質となっていた妻らを奪還し、やっとのことで帰還した。徳川家との和平交渉の末、島津家は本領安堵と義弘の助命を勝ち取る。その後、義弘は85歳の長寿を全うした。今も多くの人々に慕われる、島津義弘の魅力とは?
歴史上の偉人たちが犯した失敗から、私たちが学ぶべき教訓を探る歴史情報番組。